「私の好きな作品 My Favorite Piece」        池 田 理 代 子
 
 
 18世紀から19世紀にかけ、ちょうど美術史が古典派からロマン派へと流れを変える中で、フランスにおけるロマン派の最初の画家として、彗星のように時代の狭間を駆け抜けていったのがテオドール・ジェリコーである。
 狂気にも近い傾倒をもって対象に執着し、何物かにとり憑かれたかのような一途さで33年という短い生涯を終えたジェリコーの作品は、“芸術”とはどういうものであるかという問いに、あるひとつの答えを与えてくれるような気がする。すなわち、他人の称賛や社会的な名誉や金銭的成功といったものを決して動機としていない、という点である。
 21歳の若さをもって、官展に『突撃する近衛猟騎兵士官』をひっさげて華々しい登場をなしとげ、画壇に大きな衝撃を与えたジェリコーだったが、この作品に続く数作は、そのあまりの大胆で斬新な筆のタッチゆえに、評論家たちの反発を買い、受け入れられることはなかった。

[メデューズ号の筏]
テオドール・ジェリコー
1819年 油彩・カンバス
パリ・ルーヴル美術館蔵
   失意の中でイタリアに滞在して学んだジェリコーの帰国を待っていたのが、西アフリカのブラン岬沖で起こったフランス海軍のフリゲート艦メデューズ号の難破事件であった。 座礁したメデューズ号には救命ボートが足りなかったため、149人の乗組員は、食料も水もない急拵えの筏に乗せられて12日間海を漂流せねばならなかった。
 筏が救助されたとき、生存していたのはわずか15名だけであった。
 指揮官の無能からひきおこされたこの恐るべき悲劇の真相を、政府はひた隠しにしようとしたが、生き残りの乗組員が、筏の上で繰り広げられた飢餓や殺し合い、人肉食などの凄まじい惨劇をパンフレットに描写して刊行したため、世論は沸騰した。
 ジェリコーはこのメデューズ号の悲劇にいたく興味をそそられ、生存者と接触をすると、自ら綿密な調査を開始したのである。
 そして、この悲劇を主題にした大作を描く為に、わざわざより広いアトリエに引っ越している。病院に通って解剖された手足を手に入れたり、処刑された犯罪者の首を手に入れたりして綿密な研究とデッサンを重ねてようやく仕上げられた『メデューズ号の筏』は、しかし、さまざまな立場の人々の戸惑いと敵意と批判にさらされる結果となった。
 社会に対する挑戦ともいえる画家の行為は、政府を、マスコミを逆撫でしたのである。
 この大作は画壇からも体よく無視される形で終わってしまった。
 テオドール・ジェリコーが精魂を傾けた『メデューズ号の筏』は、彼が33歳の短い生涯を閉じた1824年の暮れになってようやくルーヴル美術館に入ることになった。
 
 
 
 
 
  季刊誌 Cardiac Inside(医療関係の方たち向け)に掲載されたエッセイです。
 
「私の生き方を決めたひとこと」        池 田 理 代 子
 
 
 主人は私のことを“薬王(やくおう)”などと呼ぶ。それほど、私は他人様から見るとお薬漬けであるらしい。
 そりゃあ、お薬というものは出来れば使わないで済ませられればそれに越したことはない。
 お医者様にもかかったことがないという丈夫な身体であれば、それもまさにご同慶の至りである。しかし、メンタルな点でいえば、病気が与えてくれる沈思黙考の時間というのはある意味でまたかけがえのない値打ちのあるものである。大病を患って初めて、生きていることの有難さ、人生の大切さ、自然の美しさに目覚める人も多い。
 私は産声もあげない死にぞこないの虚弱児として生まれたから、小さな頃から、それはそれはお医者様とのご縁は深かった。
 漫画家として忙しくなったのは二十歳代の初め、「ベルサイユのばら」の連載を始めたのが24歳のときであるが、何が苦しいといって、ストーリーをうんうんと捻り出す仕事は24時間が労働みたいなもので、なかなか寝付けず眠りも浅いのに参っていた。
   過労からしょっちゅう慢性の腎盂腎炎をこじらせてお世話になっていた当時の主治医、春日先生に不眠の苦しみを訴えたところ、「眠れずに身体が衰弱する方が、薬の害よりよっぽど大きい」とおっしゃって、睡眠導入剤を処方してくださった。
 「医者も、ついつい患者のためと思って睡眠不足になりがちだけれど、睡眠不足で呆けた頭で患者を診察する方が、よほど害は大きい。だからぼくはなるべくちゃんと睡眠はとるんです」ともおっしゃっていた。
 成る程とおおいに感心し、薬の服用についてひとつの哲学を示していただいた思いがした。
 爾来、私は自分の人生の時間のクオリティということを考えるようになった。
 頭痛がしても我慢し、眠れなくても我慢して薬を服用せずに暮らすことは或いは可能なのかもしれない。しかしそれではものを考える仕事には厳しいし、その時間が快適なものではなくなってしまう。
 早めに、なるべく安全な薬を、できる限り少量服用し、快適な質の高い時間をもつことが、痛みや不快感を我慢して何も出来ないだらだらした時間をもつよりはずっとよい。
 そのかわり、薬の副作用によるリスクは自分で負う覚悟を決めよう。たとえそのために多少寿命が縮んだとしても、今の時間の質を高いものにしようと決心したのである。
 そしていつの間にか私は、主人にいわせれば「薬の大家」なのだそうである。
 
 
 
 
 
  猫新聞社発行のねこ新聞に掲載されたエッセイです。
 
ああ、愛しのお猫さま
 
   この世であなた方ほど、文句なしに私の心を捕らえ和ませ幸福を与えてくれる存在があるでしょうか。
 私ども人間は、もう随喜の涙を流しながらあなた方のお食事のお世話をさせていただき、お手洗いのお世話をさせていただき、お風呂にもお入れし毛を梳かせていただき、お気に召すまでさまざまな玩具を買い求め、噛みつかれようが引っ掻かれようが寛大な心をもってお許し申し上げ、その挙げ句に全然顧みられなくてもそれはそれで仕方ないとつれない仕打ちに甘んじ、たまに「にゃ」との一声でも掛けていただこうものなら欣喜雀躍(きんきじゃくやく)身をくねらせて光栄に歓喜し、さらに「にゃんにゃん」とお膝にでも乗ってこられようものならもうやりかけている仕事のすべても放擲(ほうてき)して幸福に酔い痴れてしまうのでございます。 締め切りも編集者も、あなたさまの前にはものの数でもございません。
 それなのに、この非力なわたくしめは、世界中におられますあなたがたのご一族のうち不運にも悲惨なご境遇に耐えていらっしゃるすべてのかたがたをお救いする能力はないのでございます。
 ええ、ご嘲笑くださいまし。こんなわたくしでございますから、我が家にお暮らしいただいておりますごんち姫さまに一日わずか15分ほどしかその顔を向けていただけなくとも当然の報いなのでございます。
 どでかいゴキブリがわたくしに向かって飛んでまいりました時も、さっさと見放され、ご自分だけどこかへお隠れ遊ばしたのも当然のこと。
 折角丹精こめたベランダの菜園をカラスに荒らされてなるものかと、一生懸命掛けましたカラス除けのネットに引っ掛かられましたごんち姫さまが、ネットをずたずたになさいましたのも致し方ないことでございます。
 窓辺に育てている観葉植物の新芽を美味しそうにお召し上がりになり、観葉植物の原型をとどめぬ姿に変えておしまいになるのだって、きっと十分にお気に召すお食事をご用意していない当方の落ち度なのでございましょう。
 テーブルの上に乗っているあらゆる小物の類が、いつのまにかごんち姫さまのやんごとなき麗しい御手によって悉(ことごと)く下に落とされてしまうのも、ささいなことでございます。
 何しろ先代のたぬき様ときたら、小物どころかあらゆる置物や植木鉢など重量のあるものまですべて下に落として壊しておしまいになりました。
 お食事がお気に召さないと、幾日にもわたってハンストをされ、同じ食事は一週間と続けてはお召し上がりになりませんでしたし、お手洗いに入られてもお手洗いが汚れぬようご自分の体だけ中に入れ臀部は外に突き出して排便なさいました。
 まして、あのようにくちゃいものを、そのやんごとなき御手で始末するなどもってのほか、便とはまったく関係のない離れた場所を形ばかり掻いてすたすたと立ち去られたのでございます。お気に召さないことが少しでもあると、「げっ」と食されたものを床にお戻しあそばしましたが、それもお気に召さないことの数だけ律儀に正確になさるのです。
 人間でいらっしゃいましたならさぞかし数字に非凡な才をお示しになっていたに違いないとご拝察申し上げております。
 野鳩、スズメ、イモリ、ゴキブリ、特大バッタなどなど、あらゆる動くものはたぬき様の素晴らしい狩猟の才の前にひとたまりもございませんでした。そのうえ、いかにご自分の身の回りのお世話を申し上げている者であろうとも、このわたくしめ以外の者には決して心を許さず、抱かせることも触らせることもない矜持の持ち主であらせられました。
 このような才能と誇りに満ち溢れ、21歳まで長寿を保たれましたたぬき様にひきかえ、ごんち姫さまは、ベランダで日向ぼっこをなさっているときに雀が飛んできてさえ怯えられ、「中に入れて」とガラス戸を引っ掻かれ泣き喚かれる始末で、ぼろぼろの小さな段ボール箱に窮屈そうに入られて至福の表情をお見せになり宅急便や郵便配達のお兄さんが来ると飛んでいって足元にごろんと横たわられ「にゃあにゃあ」と媚をお示しになるなど極めておん志の低いお方ではあらせられますが、もうわたくしどもはごんち姫さまにメロメロの夢中で日々ご奉仕させて頂いております。
 でもせめて、一度で結構でございますからこのわたくしの頬に熱いくちづけをしてはいただけないものでございましょうか。
 それは、高望みというものでございましょうか。                            かしこ
 
忠実なるあなたの下僕  池田理代子
 
 
 
 
 
  クラシック音楽専門TVチャンネル クラシカ・ジャパンの会誌11月号に載った原稿です。
 
ものぐさ者のクラシック        池 田 理 代 子
 
   だいたい全てのものは、初めて登場したときには《一番新しいもの》であった。
 バッハだってベートーヴェンだってそうだった。
 それが既成の概念に大きく逆らわないものである場合にはさほどの問題や摩擦はないであろうが、そうではなかった場合例えば音楽でいえば無調性音楽、絵画でいえば印象派や抽象絵画などが初めて世に問われたときの周囲の抵抗というのは、想像して余りあるような気がする。
 ビートルズだって『ベルサイユのばら』などの漫画だって、そりゃあもう当初は大人たちの眉を大いに顰めさせたものだった。
 ビートルズの方は、今や二十世紀を代表する音楽として、『イエスタディ』などは既にクラシック音楽の部類に数えられそうな勢いだ。
 漫画はこの先どういうことになるのか、私にも見当がつかない。
 クラシックというのは、決して古くてしち難しいものを指すのではないし、クラシックを愛好しているということも、それほどご立派なことでも何でもない。
 ただ、新しいものの中からいずれクラシックとして残っていくであろう優れたものを自分で見分ける手間を省いて、既に時の淘汰を経て残ってきたものを愛好しているのに過ぎない。そんな訳であるから、クラシックというのは、文句なく楽しく素晴らしくて当たり前なのである
 
  (いけだ・りよこ=劇画家・声楽家) 
 
 
 
 
  このエッセイは、9月1日(土)東京文化会館大ホールでおこなわれた東京シティ・フィル・オーケストラ オペラ II 「ヴァルキューレ」全3幕のプログラムに掲載されたものです。
 
   
  “ヴァルキューレ”に寄せて         池 田 理 代 子
 
   四部作の第一夜“ヴァルキューレ”こそは、真の意味で、この壮大な物語の始まりである。
 天駈ける美しい神の乙女たちの登場から、燃え盛る炎に包まれて戦乙女ブリュンヒルデが長い眠りにつくまでの華々しいロマンに満ちた章は、エピグラムに満ちた序夜の重々しさと対比をなすような美しさに溢れている。 甲冑に身をつつみ豊かな黄金の髪をなびかせて天を駈ける勇ましい戦乙女ブリュンヒルデの姿は、ことに私の読者達にとっては『ベルサイユのばら』のオスカルを連想させるものがあるらしく、思いいれも深い。
 私は、ワーグナーのこの指輪四部作に出会うより前に、ワーグナーが着想を得たとされる北欧ゲルマン神話の方と邂逅し、『ニーベルンクの歌』の方を先に読んでいた。
 であるから、その後にワーグナーの指輪四部作と出会うことになったとき、物語を紡ぐ稼業に携わるものとして私は、彼は多分この壮大な楽劇の第四部『神々の黄昏』から創作を始めたに違いないと確信した。
 あまたあるワーグナー研究の書を読破した訳ではないので、真偽のほどは未確認であるが、もしこの四部作を作るとすれば、どんな物書きも、第四部から始めざるを得ないという確信がある。
 そうやって第四部をスタート地点として『ヴァルキューレ』を読むと、あらためてワーグナーの非凡な作家性、ロマンティストとしての側面に唸らされてしまうに違いない。
 この四部作は、そのように可逆的に鑑賞してみると、また新たな魅力を発見することができるという喜びも味わうことができる作品である。
 私は現在さる女性コミック誌に劇画『ニーベルンクの指輪』を連載中である。
 いちおう"ワーグナーの『ニーベルンクの指輪』の物語をベースにした”と断り書きが入ってはいるが、オリジナル部分の多い創作となっている。
 私たち日本人にとって、指輪に登場する神々の性格の理解の難しさもさることながら、第二夜『ジークフリート』における英雄ジークフリートの性格の難しさは、また格別ではないだろうか。
 いかにミーメが利己的な目的をもってジークフリートを育てたとはいえ、仮にも自分を赤ん坊の頃から育ててくれた人物に対して、彼が接するその態度は、冷酷であり仮借なきものがあるような気がして、私の感性にはまったく馴染まない。
 はっきりいって、英雄という設定にしては“嫌な奴”なのである。
 多分、多くの日本人にとってもまた一番馴染みにくい点ではないだろうかという気がする。
 そこで、わたしの『ニーベルンクの指輪』では、このジークフリートの性格とミーメとの関係を最も大きく変えることになった。
 その他、火の神ローゲを、常にブリュンヒルデに付き従い彼女を密かに慕う存在として描いている。
 何しろあれだけの長い歳月を、燃え盛る炎となって岩の上に眠る彼女を守り続けるのだ。
 彼女に対する思慕がそこに育まれるのが人間感情としてはごく自然ではないかと思ったからである(何といってもローゲは半神半人なのだし)。
 このようにして、半分オリジナルという『指輪』を描くにあたって、あの長大なワーグナーの台本を隅々まで毎日のように眺めていると、実際に音楽を聴きオペラを鑑賞するときにも、多分他の人とはまったく異なった思い入れやこだわりが生じて、我ながら倍旧の面白さだ。
 金管楽器群が何かの拍子で明るめの軽い音を出してしまったときの演奏会の、何ともいえない満たされない思い、空を飛ぶヴァルキューレたちを表現するにあたって演奏が重すぎたときの焦燥感など、数え上げていけばきりがない。
 そして、何よりも自分自身にはっきりと分かることは、(いや、こんなことはもとより自分が声楽の勉強を始めるに際してわかっていたことなのだが)私には、たとえこの先何年声楽の勉強を続けても、生涯ワーグナーは歌えないだろうということ。
 ワーグナーを歌う声をもって生まれてきた人をときどき羨ましく思うこともあるが、まあ、私にとってワーグナーとは専ら楽しみ鑑賞し研究する対象としての存在にとどめておくとしよう。
 
  (いけだ・りよこ=劇画家・声楽家) 
 
 
 
 
  三笠会館PR誌 「 るんびにい 」 8月号に掲載されたエッセイです
 
  土のにおい・樹の彩・水の音・・・友の声がきこえる私の思い出
   
  運 動 音 痴 と 空 想 癖          池 田 理 代 子
 
   ”遊びをせむとや、生まれけむ”と梁塵秘抄に書かれてあるとおり、子どもというのは本来、食べて寝て遊びまわっている存在だった。
 それが許されない現代の子どもが幸福なのか不幸なのか、我々大人が外からあれこれと論評を加えてみたところで、所詮は推測の域を出ない。案外子どもというものは、いかなる境遇に置かれていても、それなりに人生を楽しみ観察し理解しているのかもしれない。
 自分自身を振り返ってみても、ただもう夢中になって遊びまわっていたにもかかわらず、けっこう今から思えば大人びた視線で世の中の不条理や悲しみや、果ては生や死といったことがらに至るまで真剣に考えていたということに驚きを覚えることがある。
 「昔はよかった」式の回想をするつもりは毛頭ないが、しかし振り返って「幸福な子ども時代を過ごさせてもらえた」と文句なく親に感謝できるということはなんと幸福なことであろうかと思う。その後の人生のすべてが不幸であったとしても帳尻が合うくらい、幸福な子ども時代を与えてもらえた。
 殊に私のように日々ぼんやりと空想に耽っては、毎日の義務や勉強も怠りがちな扱いにくい子どもに、何がしかの取り柄があるに違いないと、気長に育ててくれた両親に恵まれたというのは、幸福としかいいようがない。
 今思い返しても、私の子ども時代というのは、どこまでが空想でどこからが現実のことであったか、境界が判然としないこともあるほど物語の世界に夢中になって過ごしていた。
 どちらかといえば身体が頑健な方ではなかった私は、運動が苦手で、ほかの子ども達のように球技に耽るということはできなかった。その割には野原を駆けまわり、小川でどろんこになって遅くまで遊びまわっていたが、近所の子ども達がこんな運動音痴の私につきあってくれたのも、ひとえに私と一緒にいれば絵入りのファンタスティックな物語を楽しむことができたからに違いない。
 野原で花を摘むときも、小川でめだかをすくうときも、私にとってそれは、遠い異国で戦乱を逃れてきたお姫様の話であり、海賊に追われて絶体絶命のピンチに立たされた若い騎士の冒険譚になってしまうのだった。
 空想癖が嵩じて、近所の子ども達を巻き込み大騒動を起こしたこともある。何しろ大小さまざまの年齢を取り混ぜてくっついているのを幸いに、壮大な外国の旅の物語を設定しては、本当にどことも知れぬところまで皆で移動してしまうのだから。
 気がつけばあたりは真っ暗で、さりとて皆を元の場所まで導く責任感もなかった私は、一緒になって「ただの迷子」として泣き叫ぶしか方策はなく、以後「理代子ちゃんと一緒について行ったら駄目」と、近所の親達から大いに顰蹙(ひんしゅく)をかったりしていたものだ。
 それでも蝋石や釘で私が地面に描いた絵と共に繰り広げるおとぎ話は、いつも同い年くらいの子ども達を惹きつけてやむことはなかったようである。私自身は自分の紡ぎだす物語に夢中で、周囲を子ども達が取り囲んでいるという意識さえなかったくらいであったが。
 
  (いけだ・りよこ=劇画家・声楽家) 
 
 
 
 
  鞄d通発行の電通報 8/6号に掲載されたエッセイです
 
十 年 ぶ り        池 田 理 代 子
 
   十年ぶりの宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」上演で、様々な人から質問を受ける。これまでの初演、再演の舞台に較べてどうか、というのが最も多い質問なのだが、実をいうと、原作者にとって本当にゆっくりと楽しみながら観劇できるのは今回が初めてのことである。これまではというと、現役の劇画家であった私は、次の作品で頭の中は一杯でもありかつ忙しくもあり、すべての舞台を観るというわけにもいかなかったのである。
 とは言いながら、現在私は、この「ベルサイユのばら」を何とかイタリア語のオペラにしようと、初めてのオペラ台本と格闘している最中である。和製オペラの優れた作品はいくつか生まれてはいるが、日本語という壁に阻まれて、それは世界中の歌手たちが歌えるという性質のものとは言い難い。
 私が日本語で書いた台本をいったんイタリア語に翻訳し、さらにそれを、韻をふみ修辞を加えたオペラ用のイタリア語に書き直してもらい、それから曲を世界中から公募で選ぼうと思っている。長い年月と、新聞社や企業の援助などが要る大仕事ではあるが、日本人がフランスを舞台に書いたイタリア語のオペラ、なんて、ちょっとわくわくするような話ではないか、と自画自賛している。
 アルトやバリトンなども主役級で活躍できる、歌手たちにとっても美味しいオペラになるのではないかと思う。もちろん間に合えば私も、宮廷の貴婦人その三くらいで登場したいなどと目論んでもいるのである。
 
  (いけだ・りよこ=劇画家・声楽家)